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祭り
今近所で祭りが始まっている。その祭りは20年ほど前から始まった祭りで、宗教的な部分はかけらもない。しかし、かなりの人々がこの祭りに集まってくる。
「祭り」と名付けることによって何かが可能になる。というより、何らかの魔力が存在し、その魔力に人々は取り憑かれるのではないだろうか。よく「祭りのあと」という言葉があるが、いきなりの狂乱とその後の沈静化が祭りの主要な効果である。そのなかで、祭りの間は無礼講だという感覚もある。 私たちは常に祭りを欲している。様々な日常(ケの日)を生き、たまにある祭り(ハレの日)を生きてきた。その祭りとは本来「大きな物語」に所属しており、世界の本質に迫ろうとする、または人間の本質に迫ろうとする行為ではなかっただろうか。人間の本質=野生の部分を励起し、様々な文化的な身分を放り投げ、何か(それを神と呼ぶか、何と呼ぶか)に身を捨てる。その狂乱=本能の表出が重要な部分であり、祭りの作法はどうそこに近づいていくかというルートを指し示している。 さて、では現在の祭りは何に裏付けられているだろうか。これは基本的には「経済活動」である。経済活動としてどう人々を動員するか、いかに人を呼ぶか、そのことにより経済的効果を計る。そこには計算が働いており、決して狂乱と呼べるモノではない。かつては狂乱を導くためのイベントが今は狂乱ではなく「金」を導くため、より規模を大きくしている。そして分かったことは「祭り」は金になるということである。そうして、現在この日本だけでも毎週末、「祭り」」が行われている。祭りは本来「ケの日」によって溜まったケガレを「ハレの日」に落とすというのが一つのパターンだった。しかしそれが溜まらないままに祭りが行われ、それをただ消費するというのが、現在の祭りである。つまり、祭りの主が経済活動に組み込まれているのである。 では、そこからの脱出はいかにして行うか。それは「祭り」の企画者になるしかないのだろう。愛知万博においてもただ「見に行った」人間と「ボランティア」として参加した人間、どちらが充実度が高いだろうか。祭りというのが、狂乱を求めているのならば、現在その狂乱はイベント企画のなかにしかない。そこに金銭とか関係なくコミットして、自分が改変していく、それこそが本当に祭りを楽しむために必要なことかもしれない。「踊るあほうに、見るあほう、おなじあほうならおどらにゃそんそん」という言葉があるが、それだけでなく、現在は人を踊らせる方に参加しなくてはならない。そうすることにより狂乱=ケガレの解放につなげることができるだろう。
by homeandhome
| 2005-05-29 08:53
| 神話
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