わたしゃ、いったい日頃何を考えているんですかねぇ的雑文集。
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大きな買い物。

 少し大きな買い物をしました。

液晶テレビ 東芝Face

http://www.toshiba.co.jp/product/tv/product/beautiful/32lz100/index.htm

 です。いや清水の舞台から飛び降りちゃいました。家のテレビもはや、十年。ほぼ漏水状態になっており、二年前には大手術をしましたが、もう正直、引退させてあげようかなと思い買ってしまいました。

 いや、買おうと思ってからはや半年、ついにやってしまいました。ただ、テレビに○○万円払うということに心の整理をつけるまで、こんなにかかるとは・・・。本日7軒も電気屋をまわって(車の走行距離100km)走って、結局一番近所で買いました。本当に一日仕事・・・。でもおかげで選択には不満を持っておりません。ただ、届けてもらうので、現在手元にないのが・・・。早く届きませんかねぇ。
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by homeandhome | 2004-12-31 19:18 | 雑感

明日。

一日、遊びすぎましたね。眠い・・・。
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by homeandhome | 2004-12-30 23:50 | 雑感

部屋の掃除と雪の夜。

 部屋の掃除をしながら外を見ます。部屋は様々な物を捨てていったため、いつもより空虚な感じがする部屋です。外は雪が静に降り積もります。

 さて、そんなしみじみとした感じとはうらはらに、掃除は戦場でした。掃除をしていくと出るわ出るわ。読んでいない本が山ほど。さっさと読めよって感じだったわけですがさらに捨てられないとその当時思ったのか、くだらない物がどんどん出てきます。さっさと捨ててしまおうと思うのですが、そういう物を見つけるたびに「あぁこんなものもあったなぁ」と感慨にふけってしまい、そんな自分を振りきりながら掃除をしていきました。そしたら、残ったのが空虚な空間だったわけですが、その空虚さを埋めていた物は結局押入の中へ。捨ててないじゃん(笑)。すみません上で書いた「捨てた」は嘘です。捨てられない性格なのです。いずれ崩壊するぞ。そういうわけでただ今一部屋、図書室にしようと計画中。壁に本棚を作りつけて、今よりも収納量を増そうとしております。

 で、部屋を眺め回して、現在しみじみとしているわけですが、(長い前置きだなぁ、あれ、上の話前置きだったの?)周りに様々な情報を積み重ねて中心である部屋には何もないというのが面白いと感じてしまうのです。私たちは普段情報の海にいて、様々なもので武装しているわけですが、案外それは外見だけで中心には何もない空間が広がっているのではないかと思うのです。周辺に壁を創るが、その中には空間があり、その空間があるからこそ、私たちは息をつける。そしてその空間が新たな動きを生み出してくれる。パズルを思い出します。15個のプレートのうち1個抜くことにより、動きを生み出すことが出来ます。全ては空虚な空間があってこそ私たちは動き出すことが出来るのだと思います。自分の空虚さを恐れてはいけない。それが充満してしまったら私たちは窒息してしまう。だから私たちは満たされても満たされても空虚さを生み出していくのでしょう。

 「足るを知る」という言葉がありますが、足りないことを知ることも大事なのではないでしょうか。足りないからこそ私たちは動き出せる。多分私たちは有史以来何度も満ち足りた世界を作り出している。しかし、それでは動けなくなってしまい世界は窒息してしまう。だから私たちは無理矢理にでも空虚さを作り出しているのではないかと思うのです。わび、さび、というのは結局「空虚さ」を楽しむことなのかもしれません。空虚さが可能性を産み、そこに美しさを感じる。諸行無常という考え方がありますが、私は積極的な意味でこの言葉を使います。諸行無常だからこそ私たちには生きる活力が生まれる。満ち足りた物もすぐに変化し、また変わっていく。だからこそこの世界は面白い。

 
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by homeandhome | 2004-12-29 22:43 | 雑感

語り伝えるということ。

 神話はずっと語り継がれていくものだった。語り継がれていく中で洗練され、神聖視された。その話は世界を理解する上で我々に安心感をもたらし、生きるということに意味を与えてくれていた。宗教に代表される物語は世界の成り立ちを語ることにより人々に生きる方向を指し示す。

 現在において中心になっている思考は自然科学であるが、これも機能としては神話と変わるところはない。なぜならば「世界の成り立ち」を語り、この世界を理解しようという行為が「神話」であるからだ。自然科学も精緻な論を持って世界を語ろうとする。実際、物理学者の多くが神の存在を感じているということを語る。そういう意味では私たちにとって「神話」はまだ続いているのだろう。

 神話は語られることにより世界認識を人々に伝えていったが、その機能は「語られる」ことによって成立していたのではないかと思う。世界を語るときにその言葉に乗せてイメージを喚起していく、その行為の中に人の世界認識を作り出していく力があったのではないだろうか。キリスト教における神学論争でも、それが「文字」として残っているから「神学」というのが成り立ったのではないだろうか。一般の人々は文字を読めないために多くは神父(カソリック)などから話を聞いてそれを伝えていった。その場で神父に質問したりもしただろう。そういう会話の中で神話は語り伝えられ、変化することにより時代ごとの世界認識にあわせることが出来たのだと思う。

 しかし、それは本来記述方式では成り立たないものだったのではないだろうか。文字が一般の人々に伝わり(活版印刷の開発など)話を文字として固定することにより「神話」は基の形で成立できなくなってしまったのではないだろうか。神話は「語られること」で命脈をつないでいたのに、それが固定化することにより、世界認識の荒さが目立つようになる。文字による視点の拡大、思考が、世界認識の手段としての神話を放棄させたのではないだろうか。

 だから自然科学は文字表記時代の「神話」なのではないかと思うのである。文字という「記号」を操り、文字によって世界を記述し、自分の位置を定立していく。「神話」が「語り」のなかの世界認識とするなら「自然科学」は「文字」の時代の世界認識なのであろう。そういう意味で我々は現在文字に支配されている。

 それでは「神話」は文字の社会になり本当に死んでしまったのだろうか?神話は私たちの心の中に残っている。分析心理学の祖ユングは「元型」という言葉でそれを説明している。我々の心の中に「元型」を持っており、それが様々な面で表れてくる。それは神話の登場人物はそれが表に出た形であると主張した。つまり、現在も心の中で神話は生きているのである。実際箱庭療法はそうやって神話的な世界を表現することにより心の全体性を取り戻していくという方法をとっている。

 世界認識の手段として神話は地下に潜っているだけであり、それは自然科学が世界認識の主流となった今は眠っているに過ぎない。我々は文字とともにやはり現在も音声言語で暮らしており、言うなれば文字と言葉の二重世界に暮らしている。私たちは現在自然科学を中心に考え、神話を無視しようとしてるが、その機能は無意識の中にしっかりと残っているのだと思う。
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by homeandhome | 2004-12-29 12:42 | 神話

失われてから気づくモノ。

 私たちはいろんなものを失ってから気づきます。いや、失われない限り気づかないというほうが正確かもしれません。私たちは失われたモノの価値を、失われたという空白によってのみ感じ取ります。それは必ず何らかの寂寥を持って自分の感情に訪れてきます。誰の言葉か知りませんが、「チャンスの女神の髪は前髪しかなくて、あとから捕まえようとしてもその髪を捕まえることはできない。」ということをしみじみと感じます。例えどんなにくだらないものでも、結局は自分の中に何らかの痕跡を残していくわけで、その痕跡を眺めることにより、人は感傷的な気分に陥るのでしょう。

 様々な状況の中、様々な選択があり、様々なモノを捨て、様々なものを得ていく。その価値は常に等価とは限らず、失われたモノのほうが大きいようにも思えることがあるが、やはり前を向いて生きていくしかない自分がそこにある。

 私にとって「どうでもいい」「なるようになれ」と思っていることが、その通りになったわけだったのですが、私がずるずると結論を先延ばしにしていく中で、結論を出していく人がいる。私は何を見ていたのでしょう。そこに違和感を感じているならば、自分がそれを表明していかなければならないはずなのに。いつだって可能性を残しておきたいというのはある種逃げでしか無いのかもしれません。いやおうなくどこかで選ばなくてはならない。そのことに対して真剣に考えなかったことが、今の自分の状況を生み出しているのでしょう。

 流される自分が嫌でしょうがなかったのに、それが他の力で壊れたとき、自分の無力さを実感する。失われたモノは自分のちっぽけなプライドだけだ。しかしそのちっぽけなプライドが壊れたとき自分に何が残るのだろう。私は偏狭な人間だ。私の中には無意味な言質と思考のみが残る。

 私は言葉によって生きているが、その言葉は誰の心の中にも残っていかない。私はそうして孤独を思う。口当たりのよい言葉はどこにも痕跡を残すことなく流れ落ちていく。心に刻み込まれるのは、感情を乗せて相手を傷つけるつもりで言った言葉だけだ。私の言葉は人を傷つける。だから私は言葉を選んでなるべく感情を込めないように話してしまう。自分の言葉に感情がのり、相手を傷つけることが分かっているから。そして私は相手を暖めるような言葉を言うことが出来ない。だからこうなったのだろうか。

 私は誰よりも「私」であることに執着している。それが我執に過ぎないことはよく理解している。それをずっと見続けてきて自分がそういう人間であることを実感している。究極的には人とのことなどどうでもいいのだ。ただ生きていくため、人との関わりが必要だと「理性」で判断しているだけだ。それがいくつかの出来事によって、目の前にさらけ出される。そうしてそんな自分がちっぽけなモノだということを改めて見せられる。そうして失われたプライドは容易に逆方向のコンプレックスとなり、私を鬱状態にする。私の感情なんてそんなものです。

 こうして文章に残してみると私という人間がいかに矮小な人間であるかということが分かってきますね。私がこうして書いていくのも自分の心を整理するためですが、これからどうしていくかが私のなかの課題ですね。最終的はこれでよかったのでしょう。
 
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by homeandhome | 2004-12-28 22:55 | 雑感

もう少し・・・。

 非を認めるということは難しいですが、非があるのならば謝るべきだと思います。非を非として認めるということで、自らの生きるべき道を正直に生きていく。それが大事なのではないでしょうか。
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by homeandhome | 2004-12-27 21:59 | 雑感

捜し物はなんですか

 先日職場でちょっとしたものが無くなってしまい、いろいろ探したのですがない、ということがありました。で、上司から言われたのが、定番の台詞「なくしたものは、無くしたことを忘れたときに見つかる。」という言葉でした。

 いや本当に見つかりました。それも忘れよう、もういいや、って思ったときに。そんなもんと言えばそんなものですが、人は「探す」という行為が本来苦手なのかもと思いました。人間は何かに集中しているとき、視野が狭まります。「探す」ということはその捜し物に「集中」しているわけで、狭くなった視野でものごとを見てしまいます。しかし、本来捜し物に必要なものは、全体を見る視野であって、集中した視野ではないのです。そう考えると、上記の言葉は「集中を説いて、自然にものを眺めなさい。」ということになるのではないでしょうか。そうしたとき、狭くなった視野が広がり、全体を見ることが出来るのではないでしょうか。

 「気配」というものがあります。本来、人間は「無意識」の方に「探索」の能力があるように思います。真剣に探すというのは「意識」的に見ることになり、その結果無意識の能力を阻害してしまっているのかもしれません。そう考えると我々は何か見つけたいときはしゃかりき似なるべきではなく、リラックスしていたほうが、いろんなものを見つけることが出来るのではないでしょうか。「真剣にやれ」も時には必要ですが、リラックスしていろんな部分を使って、仕事をやるほうが、効率はいいのかもしれませんね。

 という、以上、自分の整理能力を棚に上げたいいわけでした。なかなか机の上が整理できないんですよねぇ。
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by homeandhome | 2004-12-26 21:26 | 雑感

「本を焼くところでは、やがて人を焼く。」

 上記の言葉はハイネという詩人の言葉です。古来、本は焼かれ続けてきました。「情報操作」の一環として、自分に不利にならないように権力者達が行ってきたのです。そのことも踏まえて、言論というモノを考えて行かなくてはならないと思います。                     
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by homeandhome | 2004-12-25 21:59 |

携帯

 今日、携帯を忘れて、出かけてしまいました。というような言葉に出てくるように、『出かけて「しまいました」』というような、忘れてはいけないようなものに携帯はなってしまったのかもしれません。携帯を持った当時、携帯依存症の話をみて、「あんな風になるわけない」と思っていたのですが、思ったより、携帯は強力な力があったようです。

 しかし、なぜそこまで力を持つようになったのか、それは「数は力」という言葉がなると思います。携帯はごく一部の人間が使用しているモノならば無視することが出来るでしょう。しかし、使用する人間が多くなると「持ちたくない」ということに対して圧力がかかるようになる。それは無意識に出てくる。一般常識というのと似ている。一般常識はそれが「一般」であるからこそ、力を持つ。「一般」というのは「多くの人が」という意味と近い。そしてそれが不特定多数であるからこそ、数の正確な把握が不可能になり、数は一人の人にとっては「無限大」に近くなる。そうすると人は抵抗することが難しくなる。携帯もその一つになろうとしているのかもしれません。

 人間は「社会」という環境とつながって生きていく必要があります。その社会をつながるためのツールとして必要になりつつある。それが無意識化の強制力となり、自分を不安にさせる。そういったものがこの世の中になんとたくさんあることか。
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by homeandhome | 2004-12-23 21:43 | 雑感

懸賞

 昨日、初めて懸賞というモノにあたりました。生涯初めて・・・。何が当たったかは秘密ですが、まぁ珍しい。一年の締めとしては上等です。しかし、実用性のないモノが当たってしまったなぁ。

 懸賞に当たるというのはなかなか良いものですね。まぁ人は「偶然に幸運が」という点に非常に惹かれるのではないかと思うのです。あくまで偶然にです。送ることでエントリーし、「誰か」に当たる。この誰かというのが、不特定多数であることは大事です。宝くじなども僧ですが、当たる必然性はないに等しいモノに自分を賭ける。

 偶然を求め、そこに自分を見いだすとき、人は何かに選ばれたということで、優越感を感じる。その優越感がこのような懸賞には大事なのではないでしょうか。偶然による優越は神の存在を(大げさですが)感じさせます。それが「努力」によらないところがまたいいですね。努力では「必然」になってしまい、面白くないのです。

 こうして考えると、懸賞はばくちに比べるとリスクが少なく、やりやすいですが、本質はばくちに似ているような気もしますね。
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by homeandhome | 2004-12-21 21:19 | 雑感